平岡整体療院院長の放浪記


第55話 エキゾチックカイロ@
「ムハンマド・アリーのモスク」


バスは、カイロ市内を一望できるひと際高い丘へ登って行きます。 この丘はモッカムの丘といって、かつて『シリアの稲妻』と呼ばれたスンニ派の英雄『サラデイン』が1176年に、十字軍との戦いの拠点として、要塞を建てた丘です。


サラデインのシタデル

サラデインは、この丘を基点として戦いを進め、エルサレムを奪還し、ハッティーンの戦いでは十字軍の主力部隊を壊滅させる大勝利を収めました。

この要塞の城壁に使われているのが、ギザのピラミッドの石材です。 ピラミッド工事の仕上げに使われた化粧石を剥ぎ取って要塞の建設に利用していたのでした。 12世紀頃はまだ遺跡を保護するという考え方は無かったようです。

それから700年ほど後になってからオスマン帝国のエジプト総督であったムハンマド・アリーが、このモッカムの丘にドーム型のモスクを建てました。 要塞の中にあるモスクなので、シタデル(要塞)モスクと呼ばれています。 外壁にはアラバスター(ガラス質の石)が使われているので、アラバスターモスクとも呼ばれているそうです。 陽射しを受けてキラキラと輝いていました。


シタデル・モスクと私

モスクの内部はトルコのブルーモスク程の大きさではありませんが、構造がよく似ており偶像崇拝を好まないイスラムの礼拝所らしく、床には絨毯が敷かれていて、壁と天井はなだらかな曲線でつながっていて、花模様のタイルが張り巡らされてあります。 天井からはシャンデリアが吊り下げられているだけで、他には何も置かれていません。


モスクの内部のたたずまい

ムハンマド・アリーは、オスマン帝国の軍人なので祖国のモスクを真似て造ったのかも知れません。 死後になってムハンマド・アリーの遺体は、このモスクの中に埋葬されました。

中庭に出ると、フランス政府から送られた針が止まったままの大きな時計塔が立っていますが、その前で地元の人が立っています。 カメラを向けるとニッコリと笑ってポーズを取ります。 写し終えると彼は右手を差し出して金銭を求めて来ます。


左に泉の塔があり、奥に時計塔が立っているが、時計は動いていない・・・

エジプトの観光地ではよく見られる場面です。 これはバクシーシ(施し)といってチップのような習慣です。 イスラム教の社会では『富める者は貧しい者に施しを与える』という考え方があり、失敗したり、事故などを起こしたりしても、それは『神のおぼしめし』として納得する考え方です。

ですから、日本人を含む外国の観光客は、富める者なのでチップを施すのが当然の事だと考えているみたいです。


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