平岡整体療院院長の放浪記


第23話 「ギザのピラミッドB」

カフラー王のピラミッドで、玉のような汗をかいて来たのにバスに戻ってみると、濡れていたシャツがみるみる乾いて行きます。 外の気温はこの時30度くらいはあったと思いますが、かなり空気は乾燥していました。 そのためか、すぐに喉が乾きます。

バスは道なりに進んでいき、第三ピラミッドの前を通り過ぎて砂漠に向かって走って行きます。 走るバスの中からガイドさんが 『左に見えているのが第三ピミラッドです。 ピミラッドの主はメンカウラー王です。 このピミラッドには入場しません。 この先のパノラマポイントで三基のピミラッドがよく見えるので、そこで写真を写します。』


第三ピミラッドに寄り添う様に並ぶ小さなピミラッドは、
衛星ピラミッドと言って王妃や王の母親の墓

ガイドは駆け足で第三ピミラッドの解説を済ませました。 第三ピミラッドは、第一、第二のピミラッドと比べて体積が8分の1程しかなく、隣のピラミッドが巨大過ぎるため余計に小さく見えてしまうので、あまり人気が無いようです。


バイスが爆弾を使って開けようとしたピラミッドの傷跡


1837年にイギリスの軍人ハワードバイスとベリングは、火薬を使って、入り口を強引に開き、埋葬室から石棺と遺体を発見したのですが、それをイギリスの大英博物館へ船で運ぶ途中で、嵐で船は沈んでしまったそうです。 それはメンカウラー王の呪いのためだったとも言われています。


1798年にナポレオンがエジプト遠征を行った時、考古学者や、数学者、を同行させてピラミッドを重点的に調査しました。 彼らは各部分を極めて正確に測定して、高さと傾斜角を計算し、正確な体積を割り出しました。 そこで分かったことが、ギザの三基のピラミッドの石材を使えば、高さ3.7メートル、幅0.3メートルの壁でフランスの国土をぐるりと囲むことができるということでした。

もし実際にフランスを壁で囲む工事を行ったとして、その費用と期間を計算したところ、かかる期間は30年はかかるというものでした。 

豊臣秀吉は天下統一を果たした後、大阪城の築城に取りかかりましたが、あの土木工事の天才だと言われた秀吉でさえ、完成までに15年もかかったそうです。 

ですから、ギザのピミラッドの造営は、当時としては途方もない事業だったのです。



バスはパノラマポイントに到着しました。 ところが到着すると同時に砂嵐が襲って来ました。 ガイドの話では『3月から5月にかけて砂嵐が多い』ということでした。 


ものすごい砂嵐でピラミッドがかすんで見える

ピラミッドの写真を写そうとしましたが、砂嵐でピミラッドが見えません。 この場所では土産物を販売している業者と、スナップ写真用のラクダを連れた業者が大勢待機していましたが、土産もラクダもみんな砂まみれになっていました。 

それでも何とかラクダの背に乗って写真を写し、嵐の中でピラミッドが見えてくるのを待ちました。 

やがて、ぼんやりとですが三基のピラミッドが見えて来ました。 


砂嵐から垣間見る三基のピミラッド

ようやく砂嵐も収まって、砂漠の上にピミラッドがくっきりと浮かび上がって来たので、待ちかねていた人たちは、さかんにシャッターを切り始めました。 私もせっかくのシャッターチャンスを逃すまいと何枚か写しました。 砂嵐がどんなものなのか話には聞いていましたが、耳や口の中まで砂が侵入して来て、サングラスをかけていても、ほとんど目を開けていられない程でした。 


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