平岡整体療院院長の放浪記


第64話 獣害の記録B
「福岡大ワンゲル部羆事件」


今から、およそ30年程前に大ヒット?したパニック映画の中に『グリズリー』という映画がありました。 ここに登場する巨大な灰色熊は、身の丈が6m、体重が1トンにも達する、恐ろしく狡猾で凶暴な怪物でした。



このグリズリーが映画の中で見せた行動は歴代の人喰い熊の凶行とそれは良く似たものでした。 一度、人間を襲って人肉の味を覚えてしまった熊は、人間に対して自信をつけてしまい、次からは人間が餌にしか見えなくなるようです。

映画の中でも、自分の縄張りの中に侵入して来た人間を喰い殺し、さらに生き残った人間を執拗に追い詰めて襲っています。 それから一度手に入れた物に対しては、異常なまでの執着を見せ、例え何者かにそれを持ち去られても、必ず後で取り返しにやって来ます。

昭和45年に日高山脈で起きた事件も、またこれと良く似ていました。


事件の概要

1970年(昭和45年)7月25日、福岡大学のワンダーフォーゲル部の学生5名が日高山脈を北から南へと縦走中、カムイエクウチカウシ山(標高1979m)の手前にある九の沢カール(圏谷)で野営中にテントの外に置いてあったリュックを熊に奪われてしまい、中に入っていた食料を食べられてしまった。

学生たちは熊が荷物から離れた隙を見て、リュックを取り返しテントの中に運んだのだが、それを見ていた熊はテントに近づいて来て、前足をかけて侵入しようとして来た。

とても防ぎ切れないと判断したメンバー5人は脱出して稜線まで駆け登り逃れた。

その後、再びリュックは熊に持って行かれてしまった。 リーダーはメンバーの2人に『沢を下って消防署か営林署に連絡して救助を頼んで欲しい』と伝えると、指示を受けたメンバー2人はさっそく八の沢を下って上札内方向へむかった。

残ったメンバー3人は熊が姿を消したのを見計らって、奪われたリュックを取り戻し稜線まで引き上げるのだった。


熊は本能のおもむくままに気に入った物にはひたすら執着する
気に入ったメスとは ひたすら交尾する


その後、3人のメンバーは執拗な熊の追跡を受けることになり、一人、また一人と襲撃され地獄を見ることになるのである。

7月28日、救助隊が編成されて現地へと向かう。 八の沢カールで29日に2名が、翌30日に残り1名が遺体で発見された。


遺体が見つかった八の沢カール

遺体の着衣は、剥ぎ取られ、裸にベルトだけが巻かれた状態で、顔半分が無くなっていたり、内臓が引き出されている有様だったという。

3名を襲ったと思われる熊は、付近をうろついていた所をハンターの一斉射撃を受け、血祭りに上げられて絶命した。 仕留められたのは4歳のメス熊だった。

その後、胃袋の内容物を調べたが、熊の胃袋からは肉片も骨も見つからなかった。

3人の学生を食べたのは、このメス熊ではなかったのである。 熊はもう一頭いたのかも知れないが、それは謎である。

羆を仕留めたハンターたちは『山のしきたり』によって、この熊の肉を食べた。 肉を食べることによって死者を供養する為らしい。

3名の遺体は、損傷が激しかった為、発見場所の大岩の上で荼毘に付された。 その時、現場は夏だというのに、冷たい雨が降り続いたという。


事件の現場を訪れる

札内川に沿った道を進むと、札内ダムの少し手前に『ピョウタンの滝キャンプ場』が見えて来ます。 そのキャンプ場の敷地内には『山岳センター』の看板が掲げられた建物があります。 そこは登山情報を知るための案内所であり、過去に起きた山岳事故の資料が展示してある博物館になっています。

その中に、昭和45年の『福岡大ワンゲル事件』の加害熊の剥製が展示されています。 身の丈は2mくらいで体重が200キロ程だったと聞いていたのですが、意外と小さな熊だったので私は職員の方に尋ねてみたのですが、職員さんの説明によると 『この熊は実際はもっと大きな熊だったが、ハンターに仕留められた時にたくさんの銃弾をその身に浴びた為に、剥製を制作する段階になって銃撃で出来た穴を糸で縫い合わせて塞いだところ、すっかり一回り小さくなってしまった』 という話でした。


福岡大生を襲ったとされる熊

私はその翌日、加害熊が仕留められた場所に・・・・・ 呪われた山に向かっていました。 早朝4時からスタートして札内川の上流へ向けて水の中を進み、八の沢という枝の川に折れて、ここから本格的な沢登りが始まりました。


八の沢の厳しい登り、訪れたときはまだ雪渓がたくさん残っていた

この後、次第に険しくなる流れの中をひたすら登って行きます。


滝を登ってから札内川方向へ振り返ってみる

途中、いくつもの滝の横をまいて4〜5時間登り続けるうちに、川の幅も次第に細くなり、さらに進むと水の滴りに変わって来ました。


沢が枯れた後の登山道で熊のうんこ発見
熊の奇襲に備えて気持ちを引き締める


この辺りからハイマツが茂った林に変わり、その中を通過して、ようやく八の沢カールまで辿り着きました。

ここで沢靴から登山靴に履き替えて、さらに上にある頂上を目指すのですが、その前に寄り道をして福岡大生の事件の現場を見てから行くことにしました。 3名の福岡大生が荼毘に付された大岩には、遺体を焼いた時に付いたと思われるススや脂のシミが残っていました。


岩にはめ込まれた殉難碑

岩には、岩そのものが慰霊碑になっていて、当時の受難の様子が刻印されたレリーフが、岩にはめ込まれていました。 私は死者に黙祷した後、頂上へ向かいましたが、それから約1時間程、険しい斜面に挑み登り詰めて、頂に達しました。


近年の登山ブームまでは年間に200人も訪れない厳しい山だったそうです

日高山脈第二の高峰、カムイエクウチカウシ山とは、アイヌ語で『熊が転げ落ちるほど険しい山』という意味なのだそうです。


カムイエクウチカウシ山から見えるピラミッド峰

私は山頂で以前登った事のある山の峰を探しながら、しばらく過ごしてから、南側の稜線沿いにあるピラミッド峰に寄り道をして、その後、また八の沢カールまで戻って来ました。


ピラミッド峰から見えるカムイエクウチカウシ山

前日に立ち寄った山岳センターで始めて知った事ですが、この山では昭和40年にも厳冬期の雪崩遭難事故が起きており、北大山岳部の学生6名が命を落としていたそうです。

昭和40年代のカムイエクウチカウシ山は、多くの登山者の命を奪って来た『人喰いの山』でした。


多くの犠牲者を出し魔の山と刻印されたカムイエクウチカウシ山

八の沢カールで一服した後、私は沢靴に履き替えて下山に取り掛かりました。 危険箇所が多かったので、思った以上に時間を喰いましたが夕方4時頃には、八の沢出会いまで進む事が出来たので、車を停めた七の沢出会いには6時頃までには到着できました。

1泊2日の行程を日帰りで行って来たせいか、車に戻ってから、しばらく動けないほど疲れ果て、その日はそのままそこで車中泊する事になってしまったのでした。


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