平岡整体療院院長の放浪記


第63話 獣害の記録A
「幌新羆事件」


開拓以前、北空知の沼田町は面積の8割が原生林に覆われた獣たちの巣窟のような所だったそうです。 そんな環境の中にあって開拓民と羆の接触事故は頻繁に発生した模様で、農家の開拓小屋に置かれていた、収穫したてのトウキビが全部喰われてしまったり、収穫間近のトウビキを一晩で一反(10アール)分も喰われてしまう被害もありました。

大正2年(1913年)には、現在の更新地区で通学途中の小学生が、体重200キロの羆に襲われて内臓を全て喰い尽くされる事件が起こっています。

ほぼそれと同時期には、安達地区では農作業中の若い女性が襲われ、瀕死の重傷を負いました。

昭和30年代に入ってからも町内各所に羆が出没して、農作物や家畜に多大な被害を与えたようです。

そんな開拓時代に、沼田町幌新地区で、大正12年(1923年)に発生した、この話は熊害として、獣害史に残る二番目に被害の大きかった事件です。

今から10年程前、沼田町内の恵比島地区はNHKの朝の連続ドラマ『すずらん』の舞台となり、このドラマの高視聴率に伴って、翌年、映画も作られました。 当時、映画のロケセットのある恵比島駅周辺は、連日、お祭りのように観光バスと見物客でごった返していました。


【幌新羆事件の顛末】

大正12年8月21日、この恵比島地区では太子講(聖徳太子信仰)の祭りが開催されていた。 日頃、娯楽の少なかった開拓地のため、余興で上演される浪花節や人情芝居を目当てに、近隣の村落からは多くの人が詰め掛けていたのだった。

午後11時頃にはお祭りがお開きとなり、幌新地区から祭りに参加していた20人程の一団は、夜の山道を家路へと向かっていた。

一行が幌新本通の沢に差し掛かった頃、小用のために一団から50mほど遅れて歩いていた林謙三郎(19歳)は、突然、現れた巨大な羆に背後から襲われた。

ところが、若い彼は死力を尽くして羆から逃れ、帯や着物を引き裂かれながらも何とか脱出に成功した。 そして、恐怖にひるむことなく、前方の一団に羆の襲撃を知らせる。

しかし、羆は既に先回りして一団の先頭部を歩いていた村田幸次郎(15歳)に襲いかかり、彼を撲殺した後、すぐ横にいた、兄、由郎(18歳)にも重傷を負わせ、それを生きたまま土中に埋めてしまった。

そして、先に撲殺した幸次郎の遺体の腹を裂き、内臓から喰い始めた。

パニックに陥った一団は、そこから300mほど離れた本通の農家に逃げ込み、そして、屋根裏や押入れに身を隠し、薪を焚くなどして羆の襲来に備えた。

やがて30分程過ぎた頃、半開きになったままの玄関の引き戸を羆は体当たりで打ち破り室内へと侵入して来た。

村田兄弟の父親、三太郎(55歳)は、スコップを振り上げて羆に挑んだが、反対に叩き伏せられて重傷を負ってしまう。 羆は囲炉裏で燃えさかる炎を恐れることもなく前足で踏み消して、部屋の隅で震えていた母親、村田ウメを咥え上げるとそのまま家の外に向かい山中に消えてしまった。

ウメが助けを求める叫び声が、二、三度聞こえた後、念仏が響いていたが、やがてそれも遠ざかり夜風にかき消されてしまったのである。

8月22日、事件は沼田町全域に知れ渡った。 恵比島のマタギ、長江政太郎(56歳)は勇敢にも銃を手に単身で羆退治に向かったが、山中で数発の銃声を轟かせたものの、羆に返り討ちに遭ってしまう。

8月24日、在郷の軍人、消防団、青年団など総員300人余りが幌新地区に到着した。 さらに幌新、恵比島の60歳未満の男子が残らず出動して、村始まって以来の『羆討伐隊』が結成されたのである。

一行が、山中に分け入ると、間もなく加害羆に遭遇した。 討伐隊の最後尾にいた上野由松(57歳)が羆に一撃を受けて撲殺され、さらに笠折徳治も重傷を負わされた。

吼える羆は、さらに別の討伐隊に襲いかかろうとしたが、退役軍人の放った銃弾が命中し、一瞬大きくのけ反った羆は、鉄砲隊の一斉射撃を全身に受けて、そのまま倒れ込み絶命した。

この事件では、計4人が死亡し、3人が重傷を負った。

後で分かったことだが、この事件のそもそもの発端とは、農家で飼われていた馬が病死した為、馬の死体を山道付近に事件の数日前に埋めたそうである。

その匂いを嗅ぎつけた羆は、土に埋められた馬の死体を掘り起こして食べていた。 間の悪いことに、その近くを祭りの帰りの一団が通り掛かったところ、羆は餌を奪われまいと反応して一団に襲い掛かったのである。

ここで見られる羆の行動とは、一度手に入れた餌に対しては異常なまでの執着を見せ、気に入った食べ物はひたすら食べ続けるということである。

なお、事件の舞台となった幌新太刀川上流部では、その後、昭和5年に炭鉱が開発された。 それに伴い、山中には人口が2000人を超える小都市が生まれた。

石炭の輸送のため恵比島を基点とする留萌鉄道が開通して大いに栄えたのであるが、それも昭和40年代の炭鉱閉山と共に寂れ果てて、今ではダム湖の底に沈んでしまったという。

加害熊は、死後の測定によると体長が2m、体重が320キロのオスだった。 解剖の結果、胃袋の中からは未消化のままの人の指と、大きなザル一杯分に及ぶ人骨が出たという。 羆は、虎やライオンと違い、骨から肉を外して食べずに、噛み付いた所から肉を骨ごと貪り喰うために、消化されなかった骨などは、そのまま排泄物に混じって出てくるという。


私が『幌新事件』の羆を見るために、沼田町の郷土資料館を訪れた時、建物は閉じられており鎖が掛けられていました。 役場に連絡すると『今すぐ向かいますから待っていて下さい』と言われたので、そこで待っていると、5分程で電話に出た職員さんが自転車を飛ばしてやって来ました。 さっそく鍵を開けて案内してくれたのですが、『しばらく前から利用者が少なかった為に閉館していた』そうです。

館内に入ると、むせ返るようなカビの匂いに襲われました。

目的の『人喰い熊』は玄関を入って、すぐ左手の壁にありました。

一枚の木の板に毛皮が磔(はりつけ)にされていました。 羆は思っていた程の大きなものではなく、退治される時に撃たれたと思われる銃痕がいくつか見られますが、4人も人を殺した凶暴な羆の割にはまるで迫力がありませんでした。 それはたぶん毛皮だったからそう見えたのでしょうか?

【続く】


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