平岡整体療院院長の放浪記


第62話 獣害の記録@
「三毛別羆事件」


ここでいう獣害とは、獣によって人間が殺傷された事例のことです。 現在では、なかなか考えられないことですが、今から100年程前の北海道では、内陸部の開発が始まって間もない頃であり、未開地の集落では度々獣害に悩まされていました。

それは家畜や農作物だけに留まらず、人間が襲われて死亡するケースも少なくありませんでした。 そこで北海道庁では害獣である羆や、エゾオオカミなどの駆除を積極的に行っていました。

人間を襲う獣とは羆のことですが、大正4年に、この羆による国内の獣害史上で、最悪の事件が留萌管内の苫前町で起こりました。

私は以前、北海道で捕獲された最大級の羆の剥製を見るために苫前町まで行ったことがあります。


記録に残る最大の羆『北海太郎』

その羆は、通称『北海太郎』と呼ばれる大羆ですが、立ち上がった時の背丈は3m以上、推定体重が500キロを超えたモンスターです。

今まで見たこともない巨大な爪と牙を目の当たりにして、私は言葉にならないくらいの恐怖に襲われたことを記憶しています。

羆の体には太くて硬い毛が生えており、皮膚も分厚く、簡単には刃物も通さない、まるで鎧のような強靭な肉体をしています。

私はそれまで『もし山で熊と遭遇しても、武器さえ持っていれば互角に勝負できるだろう』ぐらいに考えていましたが、そんな甘い考えは、この羆を見て一瞬で吹き飛んでしまいました。


北海太郎のアゴの力は推定400sを超えるだろうと言われている
おそらく人間の骨ぐらいは氷でも噛み砕くように噛み潰すだろう


私がこの北海太郎と、もし山中でバッタリ出くわしたとしたら・・・・・・ もし羆が私を餌だと思って向かって来たとしたら・・・・・・ おそらく必殺の爪と牙の前に成す術もなく食われてしまっていたと思います。

この大羆『北海太郎』が捕獲されたのは、大正4年の『人喰い熊事件』の現場に近い山中だったそうです。 北海太郎を倒したハンターは、大川高義さんという方ですが、実はこの方は『人喰い熊事件』に少なからず関わりのあった人物のようです。

北海太郎が展示された資料館に、その事件の顛末が克明に記されていました。

それはこのような内容でした。


1915年(大正4年)12月9日
三毛別川の上流にあった開拓部落では、この時期、冬に向けて収穫した農作物を出荷する作業に追われていた。

その中の一軒の農家である太田家でも、家の主人は仕事に出払っていて、家では妻と子供の二人だけが留守に残って穀物の選別作業に追われていた。 昼近くになり太田家に寄宿して山で枝の伐採の仕事をしていた長松要吉が昼飯を食べに戻ると、土間の囲炉裏端で側頭部と喉元をえぐりとられて死んでいる子供を見つけた。 これを見た長松要吉は、恐怖に震えながらも、その家の妻の名を呼んだが何の応答もなかった。

この事態に家を飛び出した長松要吉は、人を呼びに下流の家へ走った。 その後、数人の男たちが駆けつけて、太田家で見たものは、破られた窓とそこから囲炉裏まで一直線に続く羆の足跡だった。 部屋の中を見渡すと、くすぶる薪がいくつか転がり、柄の折れた血まみれになった まさかり があった。

足跡は部屋の隅まで続き、そこは鮮血で濡れていた。

この様子から太田夫人は、窓から侵入して来た羆に向かって、燃える薪や まさかり を振りかざして抵抗したが、羆に捕まり攻撃を受けて重傷を負ったらしかった。

羆は、太田夫人を引きずって外に出た模様で、窓枠には頭髪が絡みついていた。

この事件の報に村は大騒動になったが、12月の北海道は陽が傾くのが早く、取り急ぎ役場と警察には連絡したが、この日に打てる手は少なかった。

12月10日
翌日、村の男たちは30人の捜索隊を結成して、太田夫人の遺体を収容するべく森に入った。 森の中で150mほど進んだ辺りで彼らはそこで羆と遭遇した。 馬を超える程の大きさの黒褐色の羆は捜索隊に襲い掛かって来た。 そこへ鉄砲を持った5人が何とか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため、発砲できたのは一丁だけだった。 しかし、その弾も反れ、怒り狂う羆に捜索隊は散り散りになったが、羆が逃走に転じたために彼らに被害は無かった。

羆が去った後、捜索隊は改めて周囲を見回すと、血に染まった雪の一画で黒い足袋を履いた膝から下の部分の足と、頭蓋骨の一部が残された太田夫人の遺体を発見した。

昨日、羆は太田夫人を殺害した後、遺体を雪に埋めて、その後ここへ戻って来て、あらかた遺体を食べ尽くしたところで捜索隊に遭遇した模様だった。 雪の中へ隠すように僅かに残された肉片を見ていた村のある男は、『羆は食べ残したものを取り返しにまた来る』と言い放った。

その日の夜になって、太田家では夫人と子供の通夜が行われていた。 村人の多くは羆の襲来に怯え、参列者は僅か9人だけだった。

その中の一人が酒の酌に廻っていた夜8時を過ぎた頃、大きな音と共に家の壁が突如崩れて羆が室内に乱入して来た。 棺おけが打ち壊されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者たちは梁に登ったり、野菜置き場や便所に逃れて身を隠そうとした。

この騒ぎの中、ドラム缶や、やかんを打ち鳴らすなどして羆を威嚇する者に勇気づけられて、銃を持ち込んでいた者が羆に撃ちかけたものの、その銃声を聞きつけた隣家の男たちが駆けつけた頃には羆は既に姿を消していた。

誰も犠牲者が出なかったことに、ほっとした一同は、一旦、川の下流にある家に避難することにしてそこに向かった。

避難先の家には、太田家の騒動が既に伝わっており、避難した女や子供たちは、火を焚きつつ怯えながら過ごしていた。 銃を持った護衛の男たちは、その頃、太田家の熊出没の報を受けて出払っており、太田家から姿を消した羆は、この守りの居なくなった家に向かっていたのである。

下流の家に地響きと共に窓を破って侵入して来た黒い塊は、屋外に逃れようとした女や子供たちに襲いかかった。 さらに逃げようとする人も攻撃の目標となり、その場に居合わせた人たちは次々に血祭りに上げられ、そのなかの妊娠中の女性は命乞いをしたが上半身から喰われ始めた。

この時の激しい物音と絶叫を、避難して来た一行は聞きつけて、男たちは家を取り囲んだのだったが、家の中からは女性のうめき声と、そして肉を咀嚼して骨を噛み砕く音が響いていた。


渓谷の次郎と呼ばれる苫前で捕獲された羆
人喰い熊(袈裟懸け)とほぼ同じ体格だと言われている


空砲を2発打つと、羆は入り口を破って表で待つ男たちの前に現れた。 先頭の男が撃とうとしたが、またも不発だった。 他の者も撃ち兼ねていると、その隙に羆はまたも姿を消してしまうのである。

白樺の松明を手に家の中に入った者が見たものは、天井まで濡れる程の血の海と、そして無残にも喰いちぎられた三人の遺体だった。 腹を引き裂かれた妊婦の胎児はまだ生きて動いていた。

男たちは急いで重傷の生存者と、遺体を収容して、さらに下流の方へ避難するしかなかった。

この2日間で7人の命が奪われ、村からは人の姿が消えてしまったのである。

12月12日
討伐隊が組織されて犠牲者の遺体を餌に羆をおびき寄せるという、前代未聞を作戦が立てられたが、それに誰も反対する者はいなかったという。 しかし、待ち伏せしたところ羆は現れず作戦は失敗に終わったのだった。

12月14日
早朝、空が白み始める頃、討伐隊は山に入り羆を追った。 間もなく羆を発見、羆はミズナラの木につかまり体を休めていた。 徐々に討伐隊は距離を詰めて近寄って行ったので、羆の意識は討伐隊に向かっていた。

その時、討伐隊とは別行動で忍び足で羆に近づいていた男がいたのである。 若い頃に 鯖先包丁一本で羆を倒した『サバサキの兄』と呼ばれる日露戦争帰りの評判の高いマタギ、山本兵吉であった。

20mほどの距離まで近づいた山本は、ハルニレの木に身を隠し銃を構えた。 そして間もなく銃声が響き、弾は羆の心臓近くを撃ち貫く。 次に弾は頭部を撃ち抜いた。

羆は大木が地響きを立てて倒れるように崩れた。 討伐隊の一行は、おそるおそる羆に近づいてみたが、そこに横たわっていたのは村の恐怖のどん底に叩き落とした魔物の果てた姿だった。

羆は重量が340キロ、身の丈2.7mのオスで、金毛の混ざった黒褐色の7〜8歳の成獣だった。 体に比べて頭が異様に大きかったという。 この羆の討伐に3日間で動員された人数は延べ600人、アイヌ犬10頭、鉄砲は60丁に上った。

羆の死骸は馬そりに積まれたが、馬が羆の死骸を怖がって暴れて言う事を聞かず、仕方なく大人数で馬そりを引き始めた。 すると間もなく雪が降り始め、やがて激しい吹雪に変わり、そりを引く一行に吹きすさんだ。 この天候の急変を村人たちは『羆嵐』と呼んで語り継いだという。

羆はこの後、三毛別青年会館に運ばれた。 その姿を見た雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、この羆は数日前に雨竜で女性を食べた羆だと語り、あるマタギは旭川でやはり女を食べた羆なら肉色の脚絆が見るかるはずだと言った。 山本兵吉はこの羆は手塩で飯場の女を喰い殺し、3人のマタギに追われていた『袈裟懸け』と呼ばれている奴に違いないと言った。

解剖が始まり、胃を開くと、中からは喰い殺された人たちが身に着けていた衣類が大量に出て来た。 前述の喰われたとされる犠牲者の遺品が全て出て来たのである。 この3日間で命を落とした犠牲者は死者が7人、重傷者が3人を出したが、旭川や手塩などでも女性を喰い殺した分まで計算に入れると、死者は10人を数えることになる。 この事件で喰い殺された犠牲者は全てが女性で、特にこの羆は女性の匂いに執着が強かったようだ。

この羆の毛皮や頭蓋骨は、全て失われてしまっており、今に伝わっていない。

羆を仕留めた山本兵吉は、その後もマタギとして山野を駆け抜け、1950年に92歳で没している。 子孫の言い伝えによると、生涯で仕留めた羆は300頭を超えたそうである。

事件当時まだ7歳だった三毛別村長の息子、大川春義はその後、名うての羆撃ちとなった。 彼は犠牲者一人につき10頭を仕留めるという誓いを立てて、62年掛けて102頭の羆を仕留めて引退した後、亡くなった犠牲者を鎮魂するための『熊害慰霊碑』を建立した。

その後、春義の息子、高義もハンターになり、1980年に父、春義が追跡していた大羆の『北海太郎』を8年掛かりで撃ち果たしたのである。


北海太郎がもし生きていれば一度、勝負したかった・・・・・

三毛別羆事件は、発生から46年後にノンフィクション作家の木村盛武によって、当時の生き証人に入念な聞き取り調査が行われて『慟哭の谷』が出版された。 この記録によって事件の風化は防がれたのである。 後にこの小説を元にドラマ『羆嵐』や、映画『リメインズ美しき勇者たち』などが制作された。

この事件を知るまで羆は用心深くて臆病な生き物だろうと勝手にイメージしていましたが、私はとんでもない勘違いをしていた事に気がつきました。

【続く】


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